クラス

クラスとり始めました。まだ修士のプログラムには入っていないけど力だめしというかケジメだめしというか。なので今は学位は目的に置かずにクラス一個だけとっています。修士に入るまでもっと準備が必要だし。週1回。学校に行けることが嬉しくてしょうがないんだけど、たぶん苦労するだろうな。
クラスの題材は帝国主義について。主な焦点はイギリス・フランス・アメリカのそれです。先生が日本研究の教授なので日本の話もすこしできるかもしれない。
第1週のリーディングはエドワード・サイードの『オリエンタリズム』でした。この本はすべてをカバーするととんでもない情報の行き来に溺れてしまいそうですが、とても大事な本。まずは250語(半ページぐらい?)で彼の主題を要約したのだけど4、5時間かかってしまった。こんな調子で行くと今後もたないので焦点をはっきり、シンプルに書く稽古をしなければいけない。難しい言葉をなるだけ使わない。使えないんだから。簡単に使える言葉こそ素通りしないこと。


帝国主義時代のヨーロッパは、「他者」であるオリエントに対するイメージを創造したことにより、それらのイメージに西洋自身を反映させて「自分たち」がいかに合理的で優れているかを定義づけることに成功した。また、オリエントに対する想像を概念化してそれを利用する事で、植民地化を容易なものへと導いた。表面的な一筋縄の概念は、常に一方による他方の支配を簡単にするし、また多くの場合それを残忍なものにもする。
オリエンタリズム』は言うまでもなく大著だとおもう、けど、彼が主題として扱う用語はあくまでも西洋、東洋。同じ植民地化時代、それ以前にも東洋へ出向いたヨーロッパの学者などが東洋に対してポジティブな印象を残している例はいくつもある。中国に行ったマテオ・リッチ(少し時代を遡るが)がいて、『ペルシア人への手紙』を書いたモンテスキューがいた。「これ」と「これ」が西洋が持った東洋に対してのイメージだ。といいきってしまっている事はこの著作の抱える問題だといってもいいと思う。
イードパレスチナの出であり、彼なりののスタンスというものがあるのは間違いない。彼以前にだれも扱ってこなかったとても重要な問題を提唱したということは間違いない。彼の考えが現在の社会にも生き続けるものだというのも確信が持てる。ただ、オリエンタリズムのもたらしたものがどうやって西洋とアラブ社会の関係に影響を与えてきたかということには十分考える価値のある事だと思うけど、西洋・東洋とあたかも名付けてしまうような書き方をしているし、そうなるとこの本の大義としては東洋の肩をもつことになる。東西のあいだの情報交換はもっと多面性のあるものだったはず。

というのが今までの感想です。
べんきょべんきょ。

今日のビールは、Samuel Smith の Imperial Stout。クスッ。今の雰囲気に合わせて、とかつもりはなかったんだけど。
ちょいと甘すぎるけどマーマイトのような味が強くてくせになります。
スーパー・チューズデーの結果を見ながら。。。重い味だ。