カフェのじいさん

突然思い出したので書いておく。
2年ぐらい前まで私はあるカフェでバイトしていた。このカフェ、ブルックリンのウィリアムズバーグという地域にある。この地域は、何年か前から急に“おしゃれな”場所になった。洒落た小道具を腰周りに着けた若い人々だらけ。一番栄えている北西側は、マンハッタンから電車で5分という便利さもあって、当然、人気に乗りすぎて家賃が膨大に上がり、商業のほうも急速に膨らんでいる地域。ソーホーやイーストビレッジのように、かつてはアーティスト達が安く住んでいたが家賃が高くなって観光地化してしまった場所、むしろ今まさにそんな現象が起こっている場所だと思う。
それはおいといて、そのカフェ。当時はウィリアムズバーグでも新しくて“小ぎれいな”場所だった。私は多いときで週に5日ぐらい働いていたんだけど、そこに、月曜から金曜まで毎日欠かさず来るおじいちゃんがいた。彼の名前はArthur。背が小さくて、ゆっくり歩き、いつもハンチング帽を被っていた。毎朝9時ごろにコーヒーを飲みにきて、30分ぐらい座ったあと、カフェから歩いて30分ぐらいかかる銀行に行き、銀行で何か用を足す。またお昼ごろに戻ってきて、昼ごはんを食べる。スープとチキンサラダサンドイッチ。毎日、同じものを食べる。とりあえず、彼はこれを1日も欠かすことなく続ける。
私が働き始めたころまず気づいたのは、Arthurは、気が短いのだろうか、すぐに怒り出す。コーヒーを持ってくるのが10秒遅れました、はいガミガミ。お砂糖のパックが彼のテーブルにありません、はいガミガミ。テーブルをドンドン叩いて怒りまくる。ヒイイイ。私は怯えていました。ここのカフェは一応セルフ・サービス制なのだけど、彼のためだけに食べ物をテーブルまで運んでいかなければならない。それと、Arthurは、あまりお風呂に入らないらしい。彼の体からは悪臭が漂う。そういうことで、最初の頃は従業員皆が、“嫌な客”というレッテルを貼っていた。回りのお客さんも、彼を避けるようにして座っていた。時にはお母さんと一緒に来ている赤ちゃんにまで向かって怒鳴るし、どうやって彼を落ち着けたらいいのか皆で頭を抱えていた。しかもArthurの喋ることは、かなり聞き取りにくい。ただでさえ英語力が低かった私は、ほとんど彼の話すことが理解不可能だった。しかも彼の言っていることがわからないと、“馬鹿かお前は。”とか怒鳴るので、これには本当に本当に頭にきていた。
一緒に働いていたBen君は、その頃唯一のアメリカ人従業員で、(カフェのオーナーさんが外国人を次々と雇ってくれる人だったので)彼がArthurの英語を理解できるたった一人の人だった。Ben君は私たちのわからないところで色々彼と話をしたのだろう。お互いに理解しあっているようだった。Arthurが怒鳴りだすと、Ben君がささっと彼のテーブルに向かって一言申す。そうするとArthurは落ち着いて、黙る。はにかみ笑いをする。彼が笑うとき、普段のガミガミじいさんとは打って変わって、とても愛らしいじいさんになるのです。
そのほかにもBen君は彼を知っている近所の人などに色々話を聞いたらしいのか、だんだんArthurのことが私たちの間で明らかになってきた。Arthurは、当時88歳。なんとこのウィリアムズバーグで生まれたらしい。あとは本人から聞いた話ではないので若い頃の事は確かではないけど、アメリカ軍にいた彼は戦争でどこかを負傷し、その補償金で暮らしている、という話だった。毎日銀行に行くのは、そこで毎日お金を下ろしているからだ、というのは彼と同じアパートに住んでいるおじいちゃんから聞いた。確かに、いつも小切手の束を抱えて、カフェに座りながらその小切手に何か金額を書き込んでいた。そして、“これ、正しいか?”とその小切手を私たちに見せて確認するんです。本当は何を書いてあるのかほとんど読解不可能で、私なんかは“いや、ここが読みにくくてわからないよ、”と言っていたのだけど、それを言われるのが気に入らないらしく、すぐに怒ってしまっていた。そんな時いつもBen君に、“オーケー。正しいよ。グッドグッド。”っていつも言えばいいんだよ、と教えられる。なるほど。
こんな話もあった。Arthurはここのカフェがオープンする前からも、同じように毎日カフェに座ってはガミガミを続け、銀行に行くことをずーっとやっているらしい。ところが、やっぱり嫌われ者になるArthurは、カフェに追い出されカフェからカフェへはしごし、しまいにはここら辺の全てのカフェから追い出されてしまったらしい。わからないでもないけど。。。そうやって辿りついたのが新しくオープンした私たちのカフェ。何度もArthurに腹が立って“出てって!”といいそうになっても、このじいさんの行き場はどこにもないんだ、と思ったら黙ってコーヒー運んで愚痴をきいているのが楽になった。それより、この毎日のルーティーンがこのじいさんにはあまりにも大切なことなんだな、と思った。たまに月曜が祝日になったときとか、祝日だっていうのを知らずにいつものようにやってくるんだけど、“今日は祝日だから銀行は閉まってるよ。”と言うと、そんなわけない、と怒り出す。なんかそういうところが微笑ましくもなってくる。毎朝、ずんぐりずんぐり、歩いてカフェに向かってくる彼を見つけたらすぐにコーヒーをお盆に乗せて待機する。チキンサラダを切らしそうになったら、Arthurのための分を残しておかなければならない。いつのまにかArthurあってこそのバイト、という感じになっていた。時々、彼の体臭ががまんできないほどになるので、できるだけ丁寧に、“Arthur、たぶん今日は、お風呂に入ったほうがいいと思う”と言ったら次の日はピカピカになって来てくれたり。そんで、“今日は臭わないだろ?”とか言ってニカっと笑っちゃたりして。変なじいさんだなあ。
ま、相変わらず回りのお客に対して怒鳴ったりするので、その後もイライラする事は何度もあったんだけど。
私がもうひとつ違うバイトを始めてカフェで働く日数が減った頃、ある平日のシフトで、Arthurが来ていないことに気づいた。昼過ぎになっても、来ない。なんでだろ。急に、すごく心配になる。Ben君も、Ran君も知らないみたいだ。そうやって数日が過ぎて、ある日Ben君が、Arthurは転んで足を怪我して、今入院しているらしい、というのを同じビルの住人から聞いた、という。そうか。怪我ならよかった。と安心する。その日のカフェは、あのうるさいじいさんが居なくなってすごく落ち着いていて、穏やかで、少し寂しかった。いつもくるお客さんも、あのじいさんは?と聞いてくる。で、足を怪我したらしいよ、というと、ああかわいそうに、と言いながらも安心している様子。
その後すぐ私は他の場所でお仕事が決まってバイトをやめることになった。
カフェに足を運ぶことがなくなって、いつだったか突然、Ran君から聞かされる。Arthurが亡くなったんだって。
あぁ、そうか。死んじゃったのか。。。
足を怪我して入院して以来、一度もカフェに来ることはなかったらしい。きっと、お家に戻ることもなかったのだろうか。バイトをやめてサービス業から出られたことですっきりしていた矢先にこのことを知って、私は、めちゃめちゃ悲しかった。
変なじいさんだったけど、面白い人だったな。スキッ歯のあの笑顔が、懐かしい。彼みたいな人にはもう会えないだろうなあ。

と、なんか急に思い出した。