思ったことを書き留める、他のブログから得ること

考えて考えて、頭の中がぐっちゃになりそう。ぶはー。
昨日友人ミベリさんが遊びに来ていつもの映画Forbidden Zoneを観て、パスタを食らった。この映画は何回見ても飽きない。私が生まれた年に作られた記念すべき映画。最初に見たときはショックで、大きな衝撃と声の出ない笑いだけがあったけど、何回も観るうちにもう、この映画の中のすべてのものが私の中で美しいという域に達している。そして私たちはビール等をそこそこ、いや、かなり飲んで語った。何のことについて話したんだか、あまり覚えていない。大切なことだったのは確か。酔ったせいで忘れたとしたら、そりゃもったいないことです。気持ちが高揚して、懐かしくなってGoing SteadyHi-StandardのCDを聴きながら。。。
平日なのにぐだぐだになるまでお酒が楽しくて、会談が楽しゅうてベッドに入る頃にはネロネロ状態だったのだけど、布団に入ると同時に、すごくとんでもなく素晴らしいことを思いついた。それを目標にこれからいろいろ考えていける、と思った。本読んだり、人と話したりするうえでとても大事な“テーマ”みたいなもんを思いついた気がした。とても嬉しかった。そして、それを繰り返すようにんごんご言いながら眠りに着いた。
朝起きたらその内容を忘れていた。
ララーン
鳥の さえずり
むしろあれは夢だったのかもしれない。もーこういう自分がすごく嫌になる。とてもいい考えを見出せた、やった!と思って、浮かれるんです。自分。そうして、その後の処理がうまくないんです。ちょっといいことがあると安心して後は怠けるんです。いつもこうだ。中学最後の全道スキー大会で自分でもびっくりするぐらいすごく速く滑ってたのに、最後から2ターン目でこけ、大泣きで終わった中学時代。このことが今でも悔しい。
考えたこと、思ったことを書き留めることを、習慣づけていこう。ちょっとずつやりまひょう。

他のブログから

例えばあるひとつの事柄を通して、それについて各々のブログで書いている方々とつながっていけるのはとてもありがたいことです。自分の知らない世界や考えが、世の中にはひどく色々あるもんだ。もちろん、情報の入りすぎで頭を抱えることになる人々も沢山居るのだろうしわたしなんて毎日そんなことの連続だけど、知らないよりは知ったほうがいいんだよな、やっぱり、というのは常に感じる。そしてそういった色んな情報を判断する力がつく、かもしれない。つくだろう、という希望。手軽に情報が入ってくるというのが私のような怠け屋にはぴったり、というのは悔しいけど認めざるを得ない。本当はそんなことないんだけど。へへ、もう、どっちだよ、というのがまさに私の心境です。
とにかく。
ちょっと前から見させてもらっているArisanのノート、ここで記述されている事柄は本当に根が深く、広いと思います。日本での様々な問題、映画、本。面白く、難儀しながら読める記事ばかりです。新しい知識で自分を苦しめたい私にはぴったり。最近こちらのブログのArisanや他の多くの方の書かれたことで、深く考えさせられる出来事がいくつかあった。(あった、というよりは問題としては今でもあり続けている)ひとつは、何週間か前に大阪市が行った、公園からの野宿者の排除。私は、Arisanのこの記事を読んでこの出来事について知った。Arisanは実際にその場にいらっしゃった。最初は、夏に大阪に行ったとき座ってアイスかなんかを食べたあの公園だ、と思ったのだけど、考えるうちに明らかにこの出来事は日本で起きた“あるひとつの気持ちの良くない出来事”では決してないというのがわかってきた。ただの“本日のヘッドライン”のうちのひとつ、ではないよ。
はっきり言って私自身は野宿者の人に対して特別なつながりや感情を持っていたわけではないし、大阪に特別な気持ちを持ってるわけでもないけれど、市の行政側が強制的に野宿者の人達の人権を排除しようとしている事実が、単純に許せない、というかすごく受身的にだけど、お腹の上にズシーンと重くのしかかって来る、という感じ。(許せないという言葉はむしろ、自分自身が使っていい言葉なのかどうかわからない。)とにかくこんな冬の真っ只中に、“公園”という場所から野宿する人々の生活を奪う。生存の権利を奪うことには違いない。自分が実際その場に居ないことで身体的な距離が生じさせるであろう心情的な距離、というのをあまり感じなかった。
そういう経路でこの出来事を知ってからずっと考えていたのだけど、数日前にArisanのブログで紹介されていたのが、旗旗さんというブログのなかの、強制排除と抗議の報告、そして当日の映像。この映像を見て、なんともいえない大きな衝動が走った。私が説明しても映像の語るところには及ばないのだけど、ビデオと一緒に書かれている報告を読んで、一層胸が詰まる思いがした。まず、こんなに沢山の人々の間で、理屈では野宿者のテントを守る側、そしてそれを排除する側に分かれているわけだけど、排除する側(ガードマン、市の職員や警官)の人々の中には正直、野宿者の排除におおっぴらには賛同できないでいる人々がいた、ということ。旗旗さんによると、あるとき野宿者の支援側の人が、マイクを片手に演説をはじめたそうです。

・・・「家に帰って自分の子供に”今日、野宿してる人のテント壊して追い出してきた”と胸張って言えるか?言えへんやろ!言えへんことはしたらあかん!」・・・「労働者の魂あるやろ!だったら今すぐ回れ右して帰ってくれ!そして話し合いをしよう。強制やなくて話し合いやったらなんぼでもする!」

という演説が続くにつれ、下を向き、顔をこわばらせたりうなづいたりする市の職員達がいたそうです。そんな行政側にたつ人々の心の中を想像することで、なんともいえない気持ちになった。仕事のために、自分の気持ちを殺して、しかたなしにこれをやっている人がいるんだ、ということ。なんとも逃げ場のない心境でいたことだろう、と思う。

さっきも書いたとおり、私はその場にいた人間でもないし当事者でもないのだけど、そしてだからこそこういう客観視ができるのかもしれないけど、この大阪での出来事は、あまりにも象徴的で、うまくいえないけど、イスラエルが今パレスチナに対してやっていることと重なって感じられたり...いやいや、もちろん、[野宿者側 対 行政側] と [イスラエル 対 パレスチナ]みたいに単純に状況を比べられるもんじゃありませんし、今この例しか挙げられないのは知識不足で恥ずかしい限りですが、両方の例において一方が強、もう一方が弱になりえるのは明らかで、その関係を把握しながら外側から見つめる、ってことは全くの部外者、ていう立場ではなくなる、ということ。そしてそういう様々な状況の中での“人間の気持ち”を想像してみることで、私だって同じようなこと考えるじゃん、というふうに感じられてしょうがないんです。なんというか、自分に直接の影響がないだろう、と思われる出来事に、自分はどう関わっていけばいいか、ということを考えてるんです。
これは今ちゃんと書ける自信が無いので、後日ゆっくり書くことにしよう。

あ、なんか昨日の夜フラフラしながら思ったり考えたりしたことを、ちょっと思い出してきたんじゃないかい?