パッチギ!

NYアジア映画祭でやってたので、見てきた。凄かったー。。。
まず、ちょいと残念だったのが観客が少なかった、ということ。会場は半分埋まってるぐらいでした。この映画祭、売り切れになる映画が多いのだけど。平日の6時からってこともあってかな。。。
映画の最中はもう私は笑いすぎ泣きすぎで、大変だった。見終わってこんなにスッキリした映画は本当に久しぶりだった。
1960年代の京都、朝鮮高校(朝高)の生徒と東高の生徒の間(主にヤンキーさん達)での小競り合いが絶えない中、東高の男の子(コウスケ)が朝高の女の子(キョンジャ)に一目ぼれしちゃって、それがストーリーの軸になっていくんだけど、在日朝鮮人と日本人の間の問題があんまりにも気持ちの良い青春映画という背景に(変な言い方だけど)ぴったりあてはまっていて、違う民族同士とか言っても、結局は、恋も、どうやったらこのひとと繋がれるか、とかいうのも人間同士の問題でしょう、というのがすごくわかるストーリーになっている。プラス、私にとって60年代の京都といえば学生運動が熱かった、ぐらいのことしか知らなくて、当時の高校生のこととか朝鮮学校のこととかはあまりわからなかったのですごく新鮮で面白い部分が沢山あった。あのヤンキーの集団の激しさは、本当にあったんだろうか。そして毛沢東語録を本気で引っ張り出してくるあの高校の先生、そういう先生、居たんだろうか。。。とか。それにしても、全てが関西ノリ、っていう偏見を以って全てが楽しめた。ファンタジー映画じゃないけど、そういう夢のようなメチャメチャっぷりが映画全体を包み込んでいたような気がする。
話は戻るけど、この映画で重要なのが、在日の人たちと、日本人の人たちとの間の、通じあえない、という普遍的な問題。この“問題”はしっかり存在するんですよ、というのがお葬式の場面で朝鮮人のおじちゃんがコウスケに対して“日本人は、出て行ってくれ。帰ってください。”と言う場面。これがコウスケの心にドシーンと来る。そしてそのおじいちゃんを黙って聞くことしか出来ず、帰れと言われるコウスケに目をやることも出来ないキョンジャの表情は、あまりにも多くを語っていると思った。そのおじちゃんが語る歴史や生い立ち、っていうのがキョンジャにとってキョンジャ、という一人の人間がこの場所に存在する理由でもあるんだ。だから、ただ“民族という壁を越えて恋をする素晴らしい若者達”っていうわかりやすいメッセージで終わっていないところが大事だと思った。
そしてやりきれない気持ちで葬式会場を出て行くコウスケは、橋の上でギターを壊してしまう。でも結局ラジオ局で“イムジン河”を演奏することになるんだけど、この辺のクライマックスは私ウングウング言いながら泣いていたので解説できん。。。とにかく、見てくださいとしか言いようがない。この“イムジン河”、この映画のテーマ曲のような歌なんだけど、京都の、コウスケたちが暮らす場所とキョンジャが暮らし朝鮮高校がある場所の間に流れる鴨川がちょうど京都という街の中の“河”ということで、この歌が映画全体で比喩的な意味合いをもたらしている。主人公達は、お互いにその河を越えて行こうとする。しかし、私はこの歌が流れるたびに泣いていたなあ。。。
ストーリーの構成としては、ちょっと無理がある場面がたくさんあった。時間の流れとか、無茶だろ、とか思ってしまう場面があったけれど、コウスケとキョンジャの間の話以外にも色んなことが周りで起こっていて、それをうまく時間内にまとめなきゃいけなかったのかな、とか思う。さっきも書いたように、そういうメチャメチャだろ、っていう雰囲気がある意味良かったのかも。レオポン、観に行きたいな。。。
それにしても、良い映画でした。個人的には、キョンジャのお母さん役がとってもよかった。
上映後、涙を拭って映画館を出ると、次の映画を見るためにすごく沢山の人が列を作って立っていた。何の上映があるのかわかりませんが、コラァ!おまえらパッチギ見とけよ。。。遅いんじゃい。って心の中で叫んでいました。
(余談)それと、ランと2人で行ってたんだけど、終わって地下鉄の駅に入ると、後ろに歩いていたと思ったランが突然姿を消した。ホント、急に見えなくなった。え、どこに行ったんだ。。。とプラットフォームの端から端まで歩いて探したけど、どこにも居ない。まさか、どこからともなく現れたヤンキーに連れ去られてボコボコにされたんじゃ。。。いや、本気でそう思いました。そして30分後にどこからともなくランがプラットフォームに現れたわけですが、ランさん自身も全く同じ事を考えてたようで。。。一旦駅の外に出て探しに行ったり。いや、でも絶対私のほうが前を歩いていたと思うけど。
最近夢のような出来事が多くて困ります。