ネット内での論争、とか

一週間ほど前に書いて放置してあったんですが、載せておこうっと。
暇になるとよく他の人のブログを辿って色んな人の考えを読むことことなどをやるわけですが、近頃は暇じゃなくても自分から検索し探して読むことが多くなった。身体に悪そうだがこれが結構中毒になるんです。そして、色んな「人」が書いてあるんであろう事柄を読みながら、大抵は読み流してしまうんだけど後に妙な気持ちの悪さが残る。ひとつは、15日の靖国神社のことやその後に起こった加藤紘一氏という政治家の実家が焼かれた事件。
(長文)
靖国のことについては、あまりにも「日本」や「日本国民」っていうコンセプトが乱用、雑用されているような言葉が多くて驚く。「日本人として当然。」この考え方が、私にはまだわからないしこれからもわからないと思う。で、その「日本」の(今の)政治のやり方を批判する人には「売国奴」という名前が付けられるらしい。という私のの見解もわかり易すぎなんだけど、こういうちゃんと考えられていない熟語の言葉遣いが流行みたいに見えてしょうがない。もちろん、ネット上で話をする人達は(私も含めて)少数なんだろうけど、少数だからべつに問題ない、ということでもない。怖いのは、「少数だけどこうやって市民レベルで発言活動を続けることが大事」ということがどの思想を持つ人にも当てはまるから。私も、声を上げれば何かを変えるのは不可能じゃない、というは漠然とだけど信じている。極端な例だけど、あるブログで加藤氏に対して用いられた暴力を「民族の怒り」と呼んで当然の報い、としたりしているのを読んだ。またここで「民族」という言葉の使いかたが。「普通の人々の思いがこういう結果をもたらしました。」みたいなプロセスでまとめようとしているのだろうか。本当に怖いです。
ハンナ・アーレントの『暴力について』という本を最近読んでたんだけど、

権力は政治的共同体の存在そのものにほんらい備わっているものであるから、いささかの正当化(justification)も必要としない。権力が必要とするのは正統性(legitimacy)である。この二つの語はよく同義語として扱われているが、それは服従と支持を等置する昨今の用語法と同じく誤解と混乱を招くものである。権力は、人びとが集まって一致して行為するときにはいつでも発生するが、しかしその正統性は最初に人びとが集まることに由来するのであって、その後に続くのであろうなんらかの行為に由来するのではない。正統性は、異議が申し立てられたときには、その過去に訴えることを根拠とするが、これにたいして正当化は未来にある目的に関連している。暴力を正当化することはできるが、しかし、暴力が正統なものであることはけっしてないであろう。

なんとも長い引用になってしまったけど、何らかの同じ考えを持って集まる人達の中から発生する力のひとつが権力だとしたら、それを他の対立する力から擁護するためにある力を使うとする。それが、どんな形態を伴っていようとも暴力といえるんじゃないかな。そういう状況で生まれる暴力が純粋に暴力として問題視されない場合があるから。だから人びとは突き進むんじゃないかな。集団として行動するときとか、ある集団的思想をもつひとりとして発言するときとかに、こういうことは起こると思う。あー、どうなんだろ。

といっても私には、この辺のことは120%集中していないと言葉が浮かばないような難しいことです。

日本人として当然、という考え方がわからないってさっき書いたけど、気持ちの面で日本人ってなんだろ、てこと自体私にはわからない。(昔父親にそういうことを聞かれて考えた覚えがある。日本で生まれたからー!なんて話していたけど、その頃よりはもうちょっとものがわかるようになったと思う。)パスポートも戸籍も紙切れでしかない。このことは答えの出そうにない「別の話」になってしまうのでおいとくけど、コレコレだから当然、とか左翼だから、とか勝ち負けとかいう考えがまかり通っている世の中で、(日本だけじゃない)そういう白黒の考え方を見つめなおして灰色の部分にちょっと浸ってみないといけないと思う。信念を貫くって、という言葉は恐ろしいほど美しいけど、それを少しは曲げなきゃ色んなことが見えてこないし、色んなことが見えないってことは人間としてもったいないと思う。私自身に対しても言えることだ。
言葉の上のことだけじゃない。自然の美しさを知ってるから都市のつまらなささを語れるんだし、それは逆にもなりうる。こんなことを書いて、まあきれい事ね、で済むかもしれないけど、ひとつの考えが集団の考えになるとそこに権力(authority)が生まれて、その権力と暴力が一緒になって走ってしまうことがいちばん、恐ろしいことだと思う。そういうことは今まで何度も起こってきたし、それぞれの出来事の過程でどういう力が働いていたのか、考えなくちゃいけないと思う。
って、考えてるんですけど。。。

ちゃんと言ってなかったかもしれないけど、首相の靖国参拝に対しては私は反対です。これからも。何年たっても同じ立場の人が同じ場所で同じことをするのは、分祀とかなんとかしても“イメージ”というものは残る。形式だけでも「国」の代表である人が、他の「国」の人々を傷つけている(感傷的にだけでなく)かもしれないと思ったらやるべきではない。それぐらいは首相も知っていることだろうけど、15日の朝、極右の人達にあれだけ賞賛されながら出かけて、足がすくむ思いはしなかったのか、とも思う。個人の思いと、形式とは区別しなければいけないじゃないですか。国の代表っていう肩書きとか、8月15日という日とか、個人の感情のようには曲げられないことがある。靖国神社というひとつの団体が誇りを持って主張している、戦争の美化ということについては書く必要もないと思います。(2年前に靖国に行ったとき、隣接する遊就館というところでの展示を見たんだけど、軍国主義の美化と亡くなった兵士の命の美しさが共存しているような場所で、はっきりいって吐きそうなぐらい恐ろしかった。)
どうしても「個人的感情で」戦時中に亡くなった方にお参りしたいのなら、自宅で線香上げたり神棚に手を合わせるのが一番いいんじゃないかと。「うちでそうやって、毎年やってます」って首相が世間に向けて宣伝するぐらいなら、いいと思うんだけど。
わかってないことは沢山あるけども、これぐらいは書いておく必要があると、思いました。

それと、紀伊国屋NY店は、最近いい本がたくさん入ってきている気がする。