[考〕どうしたらいいのかねぇ

私は物事を深く考えすぎてしまう傾向がある。深く考えることは大切だしそうできる自分はほめてやりたいけど深く考えすぎは体に悪い。最近これはほんとに感じる。たとえば話す相手に配慮して、とかいう考えすぎのことを言っているのではなく、その辺は結構簡単に乗り切れる。
こういう言葉で片付けるのは良くない(将来子供が出来たら使うのやめます。)けど、頻繁に、fuck offです。聞くのは聞くんです。でも相手によって自分の考えが曲がるということがほとんどない。だからその辺は軽く配慮できる程度になってきた。(昔は気にし過ぎでひどかったけど)でもほとんど病的に考えこんでしまうことといったら自分の使う言葉の意味です。普段からそういやって考えたりなんだりしたものを書くのは好きだと思うけど、書いている途中に5秒前に書いたことがすごく嫌いになって、全部消したりしてしまう。で、なんで嫌いになるかっていったら、使った言葉の意味がよくわかってないからです。または、わかってないと思い込んでしまう。で、よく本をひっぱりだしてきたり辞書引いたりネットで調べたりしてそうやって四苦八苦して書く。みんな絶対そういうところあるとは思うけど、私ほど毎回毎回毎回毎回書いて消して書いて消して2時間ぐらい経っちゃうってことはないんじゃないですかね。まーでも自分の言葉に対してそこまで完璧になることもないしょ、って思うし、誰も完璧な文章を書ける人なんてそうそういない。そもそも、完璧って誰が決めるんだー。(ほらほら、こういうところ。)論文書いてるんじゃないんだからね。でも、書いて消して、あーもうやめよ、って頭のムダ使いした感がいつも残るのです。なんかそういうのは自分の人格の問題かもしれない。何がおかしいんだろう、ねぇ。
だから今回はできるだけ消さないで書いてみようという試みをここに実現させます。絶対消さないよ。信じない人は可哀相だけど、アンタあまりにも悲観主義だね。がんばれよ!

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題はなんでもいいんです。娯楽系のことは普段からあまるぐらい書いているので他のテーマにしてみましょう。
「国家」の象徴とかについて
(ちゃちいタイトルの付け方だなあ)
国家主義という言葉をとにかく追求したくて、色んな人の資料とか読んでいる今日この頃なんだけど、何でかって言ったら日本の国家主義に急速に傾いている様子がすごく気になるから。気になるって日本語はちょっと無責任に聞こえるかもしれないけど、気になる、気にするっていうのは全てのことを考える基盤となる感情で、何が言いたいかっていうと、えーと、話がいきなり外れますが、それてしまうと説得力がなくなるのでここで元に戻ります。すいませんいきなり。。。
で、日本での「国家」ていう意識が、意識して使う言葉じゃなくて無意識のうちに使われてしまう言葉になってきてる気がする。無意識に、ていうことは「あまりその意味も考えずに」ということです。使われる、って言ったけど実際のとこrは「使われる」んじゃなくて「人々の意識の中に静かに入り込んでいって、設置されてしまう」みたいな意味で使われている、ということです。べつに新聞とかテレビに国家って言葉がいっぱい出てくることじゃない、というのはわかるでしょうか。解っていただけるでしょうか。
引用とかはしないで書きます。(今日の新しいルール)なのでうろ覚えかもしれないけど出来るだけ覚えていることを並べて書きます。、とここでいきなり歴史家なりの書いた言葉とかに要点を持っていくのはずるい気もするので、ちょこっともうちょこっと書きます。自分が国家という意識についてどう思うか。
まず、たまたま自分が関わっている「国家」というのが日本なわけですが、自分は日本人なわけで、なんで日本人かというと日本って国で生まれて、母国語として日本語を話して、そしてちょっと成長してから海外に出る機会があったけどそれでもまだ日本人ていうシステム上の名前を保つことに決めたから日本人なわけです。そもそも、日本人であることが仕事の選択とか、友達とか、食べ物とか服装には影響しません。でも、やっぱり自分はなんで「日本人」かな〜って思ったら、日本のことが「気になる」から。他の国と比べて日本のことが断然きになる。(で、ここで他の国と比べて、って言った時点で自分で逆方向から国っていう枠を作っているわけですが)「国」っていう言葉はそういう個人的な感傷的なレベルに置いておきたい。とくに政府を初めとする機関などの団体がプロモートしている「日本国」を基盤にした意識みたいなものは、こういう意識がしらんうちに何の罪もないおじさんおばさんにいちゃんねーちゃんの心の中に入り込んでいってる、って思ったらとても恐ろしい。で、そう考えたらそういう彼らも「罪のある人」になりうるのよ。ナチス時代のドイツ国民の人達の「とらなかった行動」を考えたら、どれだけ罪がないか、というのがどれだけ大きな罪になるか、っていう反比例は必ず生まれる。それを外側から見ているつもりの私も、本とは小さい風船の内側にいて周りが見えてない、ってことはありえるし。誰だって、目の前にあるものが恐ろしすぎて無視したい感じに侵されることはある。
話がそれましたが、とにかく、国は政府のものじゃなくて、人のもの。そういう当たり前なことが、隠れすぎていると思う。日本の政府や機関がやっていることが自分を象徴することなんてありえない。でも、象徴することになりそうなぐらいこの国の「国家」意識はどんどん進んでいて。もうちょっと具体的にすると、「国」の「国民」が、「国土」のうえに住む。この方式の普遍さがおそろしいと思います。(って、具体的になってませんので抽象的にすすめます。)この方式を基準にすると、何が起こるかっていうと「自国の国民が自分の土地で「安全に」暮らすことが出来る」というスタンダードが世界中の国々にできます。(今話していることは既存のことを繰り返しているだけだけど)で、そういうはっきりした枠というのが問題だと思うんだけど、「外の国」と「自分の国」のどっちを大事にするかといったら自分の国に決まっているわけです。もちろん、外の国のことも考えて支援したりすることはできる。お隣で苦しんでいる人々に対する思いやりという考えはそれこそ近代には世界のスタンダードになっています。でも、政府のいろんな権限を持った人達が「よその国も大切だけど自分の国を護るために何々これこれします、」って決める前に、市民のレベルで、いかにそれが当たり前になりやすいか、ということが問題だと思う。
「政府の権限のある人」って遠まわしに書いてすいません。
ところでその権限のある人を投票して決めるのは自分らだ、っていうのは本当ですが、政府の人達は友達じゃないし。休日にどんなシャツ着てるかとか知らない人が自分の住んでる地域の名前を変える権限があるのかよ、ってことです極端に言うと。(極端にいうとあまり説得力がない?これ私の悪い癖ね。)だからどんなに反対意見があろうと、だいたい決められてしまう最近の決め事の傾向は、すごくいかん。当たり前だけど。あーごめん。最近だけじゃなくてこんなことはずーーーーーと続いているのだけど。

見たい資料が今手元にないのでまたゆっくり書く。でも、消さなかったよーだ







追記:今頃書くのもへんですけど、このブログはたまに私のライティング練習場みたいな感じになるので坂道やすべり道満載でいきたいと思います。心を悪くする方がいるかもしれないけど、忘れてください。読んでくださっている人がいるだけでありがたいです。コメントをいただけるともっとありがたいです。何にもない真っ暗なサイバースペースに向かって書いている感じはやっぱり不安になるんです。(こんなところで甘えてますが)

じゃ、どうも!