つづき

早く雪が降らないかなー。

昨日書いたことに加えて。。。加えるっていっても昨日はめちゃくちゃしか書いてないけど。
「日本人である」と思うことが悪い、って言ったわけじゃない。誰にだって同化する場所、戻れる場所があるというのは大切なことです。逆に、「自分は地球人です」とか言うことは、現実逃避だとも思う。でも、でもでもでも、想像してみてください、といいたい。日本人です、て考えるとき、どういう前後関係が生まれるか。
「日本人」ていう概念は、日本に外国人が来る前はなかった。「日本ぽい」伝統や象徴も、明治になってから意図的に作られたものが沢山ある。それと、「日本ぽい」と感じさせるものは今になっては頭で考えるより心で感じるようなものが多い。私自身も何がどう日本ぽいのかよく説明しにくい物や事がある。でもなんか日本っぽい。そういう感覚ってなんで起こるんだろう、って考えたら実は結構あーんまり歴史のないものだったりすることが多い。単に自分の家族の中だけで育った感覚だったり。

私もいろいろ矛盾していることはあると思うけど。

日本が他の国に比べて「大事」になることが、他の国は大事じゃない、というふうにはならない。なってはいけない。でも自分の国を一番に考える、って考えは単純に、戦争をしたり、出来る準備をする・できるっていうことじゃないだろうか。もちろん、物事はそんなに単純には進まないけど、人の「感覚」っていうのは時にものすごく単純に働くものだと思う。
ニュース等を読むときに「日本のニュースはチェックするけど他の国のはしない/する時間がない」(「エンターテイメントはチェックするけど政治はチェックしない」と同じように)というのは理解できる。けど人の命が関わったり、道徳的な問題になるときに他の国の人が死んでいても気にするに値しない、というのは問題になる。もちろん、「ああ可哀相ね」って言ってチャンネル変えることが悪いって言ってるんじゃなくて。そこで何か考えるのか、ってこと。メディアも、多くの場合は「いかに観てる人に考えさせないようにするか」ということを重要視して作っていると思うし。「教育法改正」も、何をやっていいのか悪いのか、「考えなくていいようにする」ような効果が出てくるんじゃないかと思う。

私が日本で学生の頃、ちゃんと歴史を知らなかったのは日本を出てから自分の無知さを恥じる結果になったし、「自分の受けた教育」が、知らないことが多いっていう言い訳にならないけど、それは逆に今の自分が、どれだけ世界の動きに敏感にならなければいけないか、っていう刺激材料になってる気がする。悔しくて本も沢山読み始めたし、「これを読んでないなんて信じられない!」って言われて慌てて(笑)読んだ「1984年」も、それ以来ずーっと考えるためのガイドブックのようになっている。私は日本を出てそれに気づいたからよかったけど、(国を「出る」か「出ない」かだけが違いを生むとは思いませんが)今日本で教育を受けてる子供らが「日本人」の心を育てるみたいな方向で学ぶ材料を与えられると、隣の国の人、遠くの国の人に「同情」や「共感」できる人間らしさとか、そういう心は生まれるのだろうか。そういうのが怖い。