On Bullshit

あまりにも長い間かけて読んでいるアドルフ・アイヒマンについての本からちょっとひと休み的にこの文庫本サイズの小さな本を読んだ。この間友達が同じ本を持っていたのを見せてもらって、あまりにも魅力的で。。。即購入してみた。タイトルを見るだけで笑ってしまう。で、中を見てみるとこれが、丁寧に分析された哲学書なんだな。

On Bullshit

On Bullshit

著者のHarry G. Frankfurtさんは、プリンストン大学で哲学を教えている教授らしい。
三省堂オンライン英和辞書によると、Bullshit:〔卑〕 たわごと.となっています。
ジーニアス英和辞書では ―[動](…を)だます;(…の)ほらを吹く.―[間][不快を表して]ばかな,あほぬかせ ということです。
にしても、日本語だとどうもしっくりこない、このBullshitという言葉。もし実現するならばぜひ、日本語に翻訳されたこの本を読んでみたいのだが、はたしてBullshitがどういうふうに訳されるのか。やっぱりたわごと、だろうか。。。
この本では、BullshitとLie(嘘)との違いが強調されている。Bullshitを言う人は、嘘をつこうとしているのではない。なぜなら嘘をつく、ということは何が真実かということが意識にあって、真実を知っているからこそ嘘をつくことができるのだから。

It is just this lack of connection to a concern with truth - this indifference to how thigs really are - that I regard as one of the essence of bullshit.

(真実に対する考慮との接点の欠如−このいかに物事が本当はどうなのか、ということに対する無関心さ― が私の考えるBullshitの本質なのです。)ぶひゃー、ひどい訳。
とにかく、Bullshitを言うことはある意味、嘘をつくより気楽にできることだし、“自分は嘘を言っている”という意識を念頭に置かない、ということなんですね。
日頃使うBullshitの例を考えてみたんだけど、私の最近の経験に例えると、
A:あの、原稿の締め切りがもう過ぎているんですが。
B:ごめんなさい、どうしても納得いかない箇所がたくさんあって、もうちょっと時間をかけて仕上げたいんですよ。
A:困りますよ。もう待てませんよ。原稿が出来たら、校正まで3ヶ月かかって、さらに印刷のために原稿を中国に送らなければならないんですから。。。

ここで、Aさんが言っていることは、Bullshitだ。中国に送るとかいうのは、本当かもしれないし嘘かもしれないがそれはどうでもいいことで、このような大げさな理由をならべて「もう待てません」と主張するなんて、まったくのBullshitだ。これはおそらく、Bさんにしてみれば中国に原稿を送る手間なんてどうでもいいことで、さらにAさんにしてみても中国に送らなければならないという事実はどうでもいいこと、なんだとおもう。大事なところは、Aさんがこのどうでもいいことを理由にしてBさんを慌てさせよう、すなわちなんとか説得しよう、としていることである、と思います。
文中ではさらに、哲学者のWittgensteinが彼の書物の中で提議した“Nonsense"という言葉についての例が挙げられている。
Wittgensteinの友人のFania Pascalが病気でベッドの中にいたときのことをWittgensteinに伝えている言葉:"I had my tonsils out and was in the Evelyn Nursing Home feeling sorry for myself. Wittgenstein called. I croaked: "I feel just like a dog that has been run over." (私は扁桃腺を腫らして、エヴリン療養所で自分を可哀相に思っていたところだった。Wittgensteinが電話をかけてきた。私はしゃがれ声でこう言った。「まるで、今さっき車に轢かれた犬になったような気持ちよ。」)
そこでWittgensteinはPascalに対して、「あなたには車に轢かれた犬の気持ちなんて分からないじゃないか。」と返す。ここでWittgensteinの返答はもっともだと言える。そしてこれがFrankfurtに言わせると、ある意味Bullshitになりえる。ある意味、というのはこの例はNonsense(日本語で使われるナンセンスは正しい意味をなすのか分からないけど、まあとりあえず無意味な言葉、という意味)という定義について挙げられたもので、必ずしもFrankfurtがBullshitの定義の一つして提案しているものではないので。とにかく、病気だったPascalは本当に車に轢かれた犬の気持ちを心の限り想像してその言葉を発したわけではないだろうし、あたかも本当に犬の気持ちが分かるかのように偽っていたわけでもないだろう。本当か本当でないか、ということはここではどうでもよいのです。この方向の考えは、Bullshitの定義に相当近づく、と思う。それにしてもWittgensteinの返答はかなりシビア、と思うけど。
Frankfurt氏は、現代の世の中には一昔前より非常に沢山のBullshitが存在する、と言っている。確かにそうかもしれない。テレビのテレフォンショッピングを先頭に、いろーんな宣伝宣伝の嵐は、とてもじゃないけどBullshitだらけ。それらのあふれかえる戯言をどう判断して受け止めていくかが大切なんですね。私も君も誰でも嘘をつくし、戯言をぬかすし。
さ、テレビでも見ましょう。