イェルサレムのアイヒマン

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

これを読み終えた。ハンナさんの本は前から読みたいと思っていたのだけど、ユダヤ人の歴史に興味を持つようになって、旦那にこれを薦められるままに読んだ。初めに無謀にもトライした英語版は難しすぎて読み始めるたびにまぶたがどよーんとなっていたので、日本語版を実家から拝借しました。読む前にわからなかったことが明確にわかってきて、そして確信をもって思っていたことが不確かになってしまった感じかなぁ。とにかく、何事に対しても常に疑問を持っていることの大切さはしっかり確認できる。
簡単にアイヒマンという人を紹介すると:アドルフ・アイヒマンは、ナチスにおいて第二次大戦中に、何百万人ものユダヤ人の殺害計画(“最終的解決”)の中で特に、強制移送・収容に責任のあった人物。大戦後すぐに、アメリカ軍捕虜になったがすぐに逃亡。その後も戦犯の罪を逃れるためにドイツ、イタリア、と逃亡を続け、1950年にアルゼンチンのブエノス・アイレスに辿り着く。そこで彼はリカルド・クレメントという偽名を使って家族と共に10年間を過ごす。
1960年5月ブエノス・アイレスで、アイヒマンイスラエルの秘密工作員によって誘拐され、イスラエルに移送される。イェルサレム地方裁判所で裁判にかけられ、15項目にもわたる罪(ユダヤ人に対する罪、人道に反する罪、そして戦争犯罪)において有罪、死刑となり、誘拐から約二年後の1962年6月に絞首される。
この本にはこの裁判と、アイヒマンの生い立ち、彼のナチス時代の記録や、どうやってホロコースト全体が計画され実行されたか、という事実や、その時の彼を取り巻くナチスの上層部からホロコースト被害者まで、丁寧に書かれている。
私は、アイヒマンのことは“イスラエルで死刑になったナチ時代の犯罪者”というぐらいしか知らなかった。この本を読み始めるときに私が凄く興味を引かれた点は、このアイヒマンという人間は、いったい全体どんな悪魔なのか、ということ。その悪魔がホロコーストから生き残った人/被害者の傍聴する法廷で、どんな口調でどんな態度で話をするのか。
しかし読むうちに、私が持っていた先入観とか、この裁判の意味だとか、そういうものは結構大きく覆されてしまった。あのような残虐な罪を犯した人間たちが、いかに“人間”だったか。そしてその人々が“人間らしい”事こそがいかに恐ろしいことなのか。(これはヒトラーの最期を描いた映画“Downfall”(英題)にもよく描かれていたことだと思う。)
まず、この本の軸になっているのはあくまでもアイヒマン裁判が行われた法廷なわけですが、はじめ私自身は、ユダヤ人にとっての“殺人鬼”であったアイヒマンユダヤ人の手で裁く、という事実がものすごく象徴的な出来事で、なんとなく ああ、正しいことが行われたんだ、という印象を持っていた。でも、実はこの裁判には問題があるという。本当にこれは正しかったのか。この裁判と判決は、ただ単にユダヤ人による復讐を、そしてアイヒマンによる償いを満たすという目的だけで成立することができたのか。
まず、なぜアルゼンチンで静かに暮らしていたアイヒマンが突然イスラエルに強制的に連れてこられて裁かれることが可能だったのか。国際法の違反ではないのか、ということ。基本的にアイヒマンは“拉致”されたのだから。これについては私は法のしくみをあまり詳しくわかっていないのでお粗末だけど、根本的なレベルでこのことが裁判の前にも後にも問題視されていた。そしてこれは被告側の弁護人(ロバート・セルバティウス)が訴えていたことで、この疑問は結局裁判の最後まで満たされないままになってしまう。一方で、一般イスラエル市民はこの裁判に対して、行け行け殺せ、といった具合の反応を示していたよう。このかつての“殺人鬼”をイスラエル人の手で裁いて、絞首する。この成り行きは、ある時点では当たり前、というふうに受け止めらていた様子が新聞記事の見出しなどから伺える。
という具合でアイヒマン裁判は、たちまち世界中の見ものになった。そして大きな“ドラマ”になりテレビ、ラジオで裁判の様子が放送された。でも実は、アイヒマンなんてナチス政権当時はそんなに重要視されている人物ではなかったらしい。ユダヤ人等の移送、収容を仕切ってはいたけれど、ゲッベルスヒムラーの名前ほど頻繁に注目される人間ではなかった。だからニュルンベルク裁判 - Wikipedia*の時も彼の名前はちらほら出ていたけれど、徹底的に逃亡中の彼の身元を突き止められるまでには至らなかった。彼が有名になったのはまさに、15年後に誘拐されてイスラエルに連れてこられたことだけが理由、といっても過言ではないと思う。
アーレントの言葉を読みながら、正直私自身のユダヤ人迫害に対するして持っている単純な悲しみの気持ちとか、そういうものが薄れてくるように感じることがあるのだけど、ただ、この論争において“あいつら(ドイツ)悪いやつ!俺たち(ユダヤ人)被害者。だからあの悪魔は死ななければ”のような一方的で白黒はっきりした見方を当時の人々は持っていて、この裁判もその流れが強く反映されていたんじゃないか、と思う。ナチスの連中は怪物ではなく、人間なんです。そこが一番胸につっかえるところかもしれないけれど。アーレントはそこんところを強く批判していて、私もそこに共感しなくてはいけないと思う。
具体的な話は、続きます。

*あんまりウィキペディア使いたくないのですが、これしか見つからなかったので単にこの言葉の説明として使います。