中東でのことに関係して

ここ最近、頭をまとめようと思って、色々読んでいます。今週末は雨ふりです。
(長文に注意)
戦争の正義・不正議論について読んだり、国連のファクト・ブックを読んだり、サイードを読んだり、で、やっぱりここでの戦いは私が思ってたのより相当複雑で、前に書いたことをちょっと取り消さなきゃいけない。まず、イスラエルについて書いた「ファシスト的」っていう言葉の使い方はいけなかった。こういう政治的イデオロギーを表す名詞はあまりにも事を簡単に片付けすぎるし、特にナチスに現れていた言葉をこういうふうに使ったのは恥ずかしいです。

Just And Unjust Wars: Incorporating The Lessons Of Operation Desert Storm

Just And Unjust Wars: Incorporating The Lessons Of Operation Desert Storm

とりあえず、この本。(日本語で読みたいんですが、出ていない。)国際戦争や内戦の歴史を交えて、戦争の正義と不正義について書かれている。この著者(マイケル・ウォルツァー)は少なくとも好戦的な視点ではこの本を書いていないし、その逆でもない。とても重要なことを述べている本だと思う。
色々探っていくうちに、なんでこんなに人々が死ななきゃいけないのかっていう単純な疑問から“人殺しをやめて”って言っていたことについて、いやーそれでは済まないんじゃないか、というふうに思えてくる。なんとなーくもや〜っとわかっていたようなことが。戦争をどう戦うべきか、どんなことが戦争では許される/許されないのか、そして、なぜ戦うのか。これはミリタリーハンドブックではなくて、モラルという姿勢を重要視している本。
例えばこの本の中で“戦争の意味とうまく戦うことの重要性”という章がある。戦争はもう始まっている、っていう諦めのようなドライ視点からはじめなきゃいけない、と所々で感じるわけだけど、

“Soldiers are made to be killed,” as Napoleon once said; that is why war is hell. But even if we take our standpoint in hell, we can still say that no one else is made to be killed. This distinction is the basis of rules of war.
〔兵士は殺されるようにできている。かつてナポレオンがこう言ったように、だからこそ戦争は地獄なのである。しかし、ためしに自分達の立場を地獄に置いたとしても、その他の人は一人も、殺されるようにはできていない、ということが出来る。この区別が戦争の規則の基本である。〕
*1

今のイスラエルレバノンの戦争は、始まりはヒズボライスラエル軍(IDF)の兵隊を二人誘拐したことでその現場だったイスラエル側の国境近くでの武装(IDF)対武装ヒズボラ武装兵)の戦いがきっかけだった。
*2
そこからIDFが攻撃(空爆)を始め、同時にヒズボラもロケット発射を始めた。そこからの、イスラエルの攻撃は報道されている通り、とても大規模なものになっている。イスラエルの攻撃はレバノンの市街地や住宅地、飛行場や交通機関を破壊している。犠牲者の多さは上にも書いたとおり。でもここで気になることがあって、それはメディアなどで人の命を奪うこととビルや橋を破壊することの悪の程度が一緒にされていることだと思う。ウォルツァーの言葉を借りるなら、確かにIDFは「うまい戦い方」をしていない。奪われた命の数は大きすぎる。でも例えば、テロリストや武器がどこに隠れているのか分からずやみくもに攻撃しているイラクにおけるアメリカ軍のやり方と一緒にする、というのは正しくない。(というような批判が書かれた記事をどこかで読んだ。)このことは批判するに値するかどうかわからないけれど、上の本を読んでいてそういうことも考えなければいけない、と思ったのでこの例を挙げたまでです。

An army warring against aggression can violate the territorial integrity and political sovereignty of the aggressor state, but its soldiers cannot violate the life and liberty of enemy civilians.
〔軍隊は、相手側の攻撃に対してその領土保全や政治的主権を妨害することはできるが、その軍隊の兵士は、市民の命や自由を侵害することは出来ない。〕

市民の命や自由、という表現について、この自由というのは軍隊によって収容されたりしない自由、ということがウォルツァーの意味するところだと思う。ここで彼は領土保全の妨害は正当化しているので。
まず、少なくともIDFはヒズボラのメンバーや武器がどこに隠れているかある程度の把握はしていると言える。イスラエルレバノンを含むアラブ諸国との対立関係はイスラエル建国(1948年)から(民族同士としての対立も含めばそれ以前から)続いていることだし、イスラエルは2000年のレバノン撤退後も無線交信等によって、機密にヒズボラの隠れ家や武器の運輸などを監視してきている。それによって、民家や、武器の運輸を妨げる空港や橋等を攻撃している。
加えて、ヒズボラのロケットによる攻撃は、標的を定めないものなので、卑怯といえばそうなる。さっきも書いたように、だからってIDFが堂々と戦っている、ということではない。
これを書いていて、私はイスラエルを支持しようという気持ちは、全くない。ただ、世の中の争いが、同じようなものとして受け止められているという感じの雰囲気がここ最近あるとは思う。ひとつひとつの出来事を歴史的に探って見てみるというのもかなりしんどいことだし、これを書いたからってどうなるのか、とも思う。かなり自分が矛盾しているのもわかる。けど私はこれは心に留めておくほうがいい、と思う。むやみにアメリカが一番悪い、アラブは怖いだとか、北朝鮮は、とか、一言で片付けてしまうのが私は一番大嫌いです。まあ、ある“大国”について文句を言うのは正直、気持ちのいいことなんだけど。
戦いは今から少なくとも1週間は続く、という見通しが立っている。IDFはレバノンの住民に避難を呼びかけ(今までもやっていることだけど。効果が出ているかどうかは別として。)、空爆を減らさなければならない。レバノンも陸上戦になる場合は軍隊を出す、と言っている。現にイスラエルレバノン南部の“占領”を再開しています。コフィ・アナンは「これでは周辺のアラブ諸国の反発を買うだけだ、」と言う。温厚に物事を進めたいところに、いや、これは戦争なんだから、という気持ちで向かっているようです。IDFは。ここの地での平穏、というものがまた遠ざかっている。
それと同時にIDFは今までパレスチナに就いていた兵士をレバノンに送り、予備軍を招集してパレスチナに就かせるそうです。ガザなどのことはほとんどニュースになっていないけれど、不正な行為によって犠牲になる人たちは、今も沢山出ています。
パレスチナのことについて、前々からよく読ませてもらっているブログ『P-Navi Info』:
http://0000000000.net/p-navi/info/

*1:ウォルツァーは、ここでナポレオンのこの引用をしたことで、戦争におけるニヒリズムを誇張しているわけではない、と脚注で書いている。

*2:余談だけど、まず今の状況について、私は“戦争”という言葉をどこで使ったらいいのか、はっきりわからなかった。どの時点で“もう戦争”なのか。それかある種の小競り合いなのか。あるいは、そんな言葉遣いの問題ではないのか。(まあそういうことだろうけど。)そう考えて、自分の生活が、距離的にも心理的にも歴史的にも、どんなに戦争から遠ざかっているものなのか改めて感じた。