映画のあとのディスカッション等

この映画があったからこそクルーの人たちや沖縄の学生達に出会えたわけだけど、そのあとに続いたディスカッションでは、ものすごく幅の広いお話が飛び交っていたと思うので、ちょっと枠を変えて書いてみたいです。
というか、ここまで書いていて本当にご静聴ありがとうございますと言いたいところですが、その場その場ですぐコレ!という言葉が出ない。ディスカッションでまた、沈黙やってしまいました(泣)。もったいない。
なので外から観た人間として書くのが歯がゆいけれど、とりあえず映画を見て思ったことをお話していた人たちを見て思ったことを。。。
一日目のNY市立大では、上映会が日本語の授業の一環となっていたようで、必ずしもこの映画のテーマに興味がある人たちばかりの集まりではなかったと思う。はじめに、沖縄の学生さんたちから「合意してないプロジェクト」(http://disagree.okinawaforum.org/)という団体の紹介があり、それからお互い通訳さんを通して活発に意見交換がなされた。市立大の生徒の女の子が、「アメリカでは、、、自分の家族や友人が関わっていることは気にするけどそうじゃないことには誰も興味を示さない。」というようなことを言った。これは沖縄の学生さんたちには、がっかりしてしまうような言葉だったかもしれない。けど、私はこれを聞いて幻滅に似たような感覚を覚えるのと同時に、行って見れば「考える/考えない」ということに関して両極に居るひとびとが正面から向き合っている場面だ、と思った。でもそれと同時に、あぁこの女の子の言ったことって、普段わたしやランが「アメリカ人」っていう目に見えない枠を作って批評的なことを(時には冗談で)言っている日常そのものじゃないか、って思った。こういう場面に出会って、なんともいえない緊張が走った感じがした。これがアメリカでの現実とは思いたくないけど、単に何も考えてない人が言える言葉じゃないとも思うし、こういうことを真剣に考えないといけないのだな、と思った。こういうことって、どういうことか、ほんとに微妙な感覚的なことかもしれないんだけど、ここに住んでいて、これだけ多くの人が住んでる国で、そのなかのまた多くの人が本当に無関心だとしたら、それなりにできることはあるはずで、そうやってできることで自分の生活自体がどんなに変わることだろう、っていうあまりにも漠然なことが頭の中を漂っている。

さっき書いた「合意してないプロジェクト」というのは、学生さんたちの説明によると、「私達の共通点は、基地建設には合意しない、というテーマひとつだけで、その前後にある意見の違いや立場の違いはキープしていいし、尊重する」、という感じの集まりだそうです。これはすごくいいことだと思う。日本だと特に強いのかもしれないけど、デモをしたり署名したりすると、極端にいうと「運動する人」というなんかネガティブ寄りな肩書きが付けられるような環境や職場に居る人たちが沢山いると思う。たとえ周りの人が「すごいね」って尊敬のようなまなざしで言っていても、ほんとはどうなんだろう。そういうところが辛いんじゃないか、とも思う。私なら「職場がなんだコラ」って言ってしまいそうなところだけど、日本に住んでいるということを考えたらそれはそんなに単純なことじゃない、って思うことが特に最近たくさんある。想像すれば、簡単にわかることなんだけど。
で、何を話していたんだっけ。そうそう、「合意しないプロジェクト」。そういう様々な意見を持った人、様々な方法で表現する人が集まれるようなグループを展開しているようで、すごく素敵だと思う。http://disagree.okinawaforum.org/ このサイトで色々見れます。


3日目のNY市立大学院でのディスカッションは、私にとっては意義深いものでした。ちょっとは感じたことあるけど言えないこと、ってあると思うけど、私はそんなんばっかりで。なので個人的に、教えられる部分が沢山あった。
「実はある本で陸軍を削って空軍を増やすということは軍の効率が良くなって兵士さんの犠牲が少なくなる、ってことを読んだんだけどそれがもし本当だとしたら、再編というのも一概に悪いこととは。。。」という、辺野古での運動を覆すような疑問が出されりもした。もちろんこの再編は「効率よく」人を殺す結果につながってしまうのだけど、これは私はほんと、疑問そのものというより、反対運動にどう関わっていくか、っていう接し方としての疑問を投げかけているようでもあり、なんか心にズシーンと重くのっかりました。この疑問は、もし当事国が100パーセント自己防衛という理由で戦争をする場合には、「正しい戦争の戦い方」として理屈が通ると思う。だけど、結局犠牲になる人が増えるし、100パーセントどころかその半分も正当な理由で行われている戦争って、今、いくつあるだろう。
あと、学生さんたちのことを、「小さい頃から正式な教育として基地の存在の意味を教えられなかった人たちに対して、可哀相だと(I feel pity)思う」というようなことを言った人がいて、「可哀相」って。。。ってちょっとカチンときてしまったけど、でもよく考えたら、それって「外部」特有の気持ちで、(これを言った人が「自分は東京で育ったんだけど」って言っていたように)そういうのは誰でも少しは持ってしまうものなんじゃないか、とも思う。カギ括弧付けさせてもらうと、だれでも、問題が起こっているその場所に住んでいなかったり家族じゃなかったりすることで「外部」になりうる。それをどうやって自分の問題として考えるかが大事、って今までも思ってきたし周りの人も繰り返し言っている。でもなんでそれが大事なのかっていったらそれはそういう「あぁかわいそうね、ピリオド。」みたいな気持ちが絶対どっかにあるからだ。それは当たり前のことだと思う。世界じゅうに沢山、そうやって見過ごしてしまうことが起こっている。このことはまた時間をかけて考えたいことだけど、そういう自分の中の両極にあるものを確認できたようで、とにかく貴重な経験でした。まぁ自分は何も言ってないんですが、なんかとても健康的だった。

その後コリアンレストランで熱い汁をすすりながら、沖縄の学生さんたちといろんな話をすることができた。個人として出会うってことが、何もかもの始まりだな。ってつくづく思う。本当に素敵な人たちに会うことができた。遠くまで来てくださった映画の監督さんはじめ、スタッフの方々、学生さん、ありがとう〜!
特に、通訳をしてくださった方に、本当に、お疲れ様でしたと言いたい。