もうひとつ

ちょっと今まではっきりさせてなかったことがあって。それは「感じる」ことと「考える」ことの違い。感情と思考をごっちゃにしていたと思います。整理すると、日本を「感じる」とき、自分の「ふるさと」ていう感じとか、「日本の何々が美しい」だとか、「日の丸が美しい」とか「君が代が美しい」ていうのは全部感情で、それを基準に政治的結論を出したりしてはいけない。そこらへんの複雑な区別ができないのが問題なんじゃないかと思う。たとえば私はすごーく好きな日本の歌があって、それは哀愁漂う日本「独特の」メロディーで、もう、最高♪この感じは日本人でしかわからないわ、とかいう感情があるとする。でもだからって日本ていう「国家」が他の国家と比べて特別に重要な集団になるとは限らない。でも、そこで、「感情」っていうのは「論理」とか「道徳」っていう域を簡単に超えてしまう。自分のことを例にすると、私は小さいころから左寄りの環境に居たせいもあってか、日の丸をみるとなんともいえない不快感を感じる。でも、それを感じるけどそれがなんでなのか理由をつけようとしてこなかったのはつい最近までの事実です。
これはある思い出話だけど、小学校6年生の時に、卒業式にむけて、担任の先生が「日の丸をステージの上に掲げるのをやめたい」と言いだした。学級会でその先生の提案を聞いて、なんか、子供心ながらに自分らの卒業式で「国」を象徴することはなかろう、っていうのはなんとなくわかって、その提案に「いいじゃん!」って思ったのだと思う。担任の先生のも好きな先生だったし。クラス全員(23人)がきっとなんとなく賛成して、国旗掲揚(舞台の上に)を、どうにかして目立たせないために舞台上の物をどう設置するかを話し合ったりした。なんとなく良くないものって思っていたけど、なんで目立っちゃいけないのか、なんで自分の担任の先生はこんなに一生懸命になるのか、小学生の時点でわかるわけがなかったと思う。
というように、たとえどんな方向に思想が動こうとしても、理由付けをできないでいることは危険だと思う。なんで日本国旗はいけないのか、逆になんで日本を「愛する」といい成績をもらえるのか、幼い子に歴史の学習をきちんと与えないうちにこんな感情だけをコントロールするというのは到底おかしい話だ。
とにかく、美しさを強調するのが右派のいろんな理由付けの根底ではないかと思う。そうやってファシズムは人びとを「感情」のレベルでコントロールしたと思うし。視覚的に刺激する「壮大さ」とか、レニ・リーフェンシュタール(「勝利の意志」)のやった仕事はその典型だと思う。といっても特に今の時代では、左派にも感情で物事に白黒つけてしまう傾向があるのも事実だと思う。(全ての犠牲者は美しい、みたいな)

「勝利の意志」の一場面

今まで書いたことが結構矛盾していたような感覚に襲われますが、それはそれで。。。