ハンナ・アレントについての乱筆

ランがたまたま見つけてきたイスラエル人の書いたハンナ・アレント大批判の小論文を読んでます。Elhanan Yakiraという人が書いてます。この人はヘブライ大学で哲学を教えてるらしい。英語なんだけど和訳するのめんどくさいので思ったことだけ。
冒頭のAbstract(論文の「総点」?)は『アレントの失敗を再考察する』みたいなことが書かれていて、ちょっと苦く面白そうだと思った。彼はアレントのいくつかの代表作に触れながら、主にアレントが『イエルサレムアイヒマン』を書いたときの彼女の議論を彼女の『失敗』(Failure:そのまま訳していいものか。)と呼んで、いわゆる突っ込みをどすどす入れている。アイヒマン裁判を分析して書かれた『イエルサレムアイヒマン』には、確かに法廷での生き残った人々による証言の場面の考察や説明が劣っていると感じられるところもあるし、彼女が書いている「(ナチスのための)ユダヤ人協力者」に関しては、あらゆるホロコーストの研究によって彼女のただの推測でしかない、といわれている。ユダヤ社会内外において当時(今もだけど)彼女にあびせられた相当な批判を考えると私はそれはアレントの間違いだったのではとうなずける。しかも63年に出版されたこの本がヘブライ語にやっと訳されたのは2000年になってからのことだった。その間も、イスラエルアレントについて書かれるのはほとんど英語でだけだったみたい。(といってもイスラエルの大学等でこの辺の研究はふつう英語で行われるようです。)
でも読んでいるとだんだんわかってくるんだけど、このElhanan Yakiraの視点は明らかなシオニストで(シオニストという言葉にもいろいろな意味合いがあるってことを彼の文を読んでいて思ったけど)、あたかもアレントによるアイヒマン裁判の報告が、あくまで「報告」であるべきで、彼女自身の個人的な心の動き(文中でアレントの使った『Late Healing』という表現とか)でものごとが進行しているのが彼にとっては不快な様子。
さらに続くのは、アレントが『...アイヒマン』(本)の中で行った、この裁判のユダヤ的独自性に対する「荒っぽい、ほとんど暴力的な拒絶(Yakiraによる)」を彼女の「思いやり?(愛?)のなさ」(absence of compassion)として指摘している。ここが私には理解できない。やっぱり、シオニストとしての愛国心的な感情を、アレントが試みた『...アイヒマン』での考察に見出せないのはいらいらするんだろうか。見出せるわけがないだろうが。
私がこの本の中で印象的だったことのひとつは、簡単にいうと彼女がアドルフ・アイヒマンの生い立ち、法廷中での発言、ノートその他を引き出して彼の「普通の人っぽさ」を分析したところだったんだけど、Yakiraはこの部分に対しても「これはただの心理学的分析の本だ」で終わっている。彼女の、シオニストがいうところの「愛のなさ」に私は惹かれるし、なんでかというと、国とか民族とかいうけどね、その前に自分は自分でしょ、「国家」ってなに。政府を運営するハゲ頭も、独裁者も、犬好きだったり家族のために稼ごうとがんばるお父さんだったりするでしょ、という根本に帰させてくれる気がするからです。うーん簡単に言い過ぎたな。
「心理学の本だ」、とかこの辺を読んでるともう読む気もなくなってくるんだけど、こうやってこっちもイライラしてるとなんだかす〜らすら読めてしまうんですよね。不思議なことに。
ま、それはおいといて。
Yakiraさん、最後には、「(荒訳)イスラエルでも外国でも、アレントを文化的ヒロインとして扱っている人々が多数いるけど、こういう人々こそイスラエルにおけるユダヤ的独自性の喪失をなんとも思わない人々なのだ。それを望んでまでいるのだ。」と言い切っています。ここまで書くのはやめとけばよかったのに。まじめに読む気がちょっとなくなります。でも、このYakiraさんという人の、哲学的な意味でのアレントの分析には納得できることがたくさんある。彼はただ往年からの彼女の名声や最近のイスラエル内での彼女に対する急速な支持(Yakira曰く)に対して、現在のシオニズムイスラエルという国のユダヤ的独自性を防御する体制をとったまでのことだと思う。そのことでこの文章全体の重みが薄れてしまうのだと思う。ということは、「ホロコースト再考」のようなことは、(修正主義は別として)最近イスラエルでさらに活発になっている、ということなんだろうか。もちろんこれはイスラエルでもどこでも常に論議されていることだけど、2000年のアイヒマン本のヘブライ語訳出版に関して考えると、最近のことをもうちょっと調べてみたい。
Yakira氏のいう、「思いやりのなさ」についてだけど、いうまでもなくこれは簡単に片付けすぎだと思う。だってそれがアレントの仕事の全体にわたっていえる、みたいなこと書いてあるから。たとえばだけど、彼女の書いたアメリカ社会の考察などにはとても心動かされる部分がある。(特にアルカンザス州リトル・ロックという町での黒人隔離制度の廃止を批判したものとか)それはどういうところか、というと彼女が常に冷静に第三者の立場で書いているからだろうか。属性のない=その集団に対する愛のない、とは言い切れないけど、それが私にとって彼女の好きなところだと、今の時点では思っている。そこんとこをどうやっていったらいいかまだよくわかりません。私にはまだアレントはすごい思想家だとしか言えないのが現実です。
だとしたら「ユダヤ問題」を扱ったアイヒマンの本には、言うまでもなく彼女の内面的考察がふくまれていて、それが彼女の信憑性のない推測を引き起こしたり、それが「失敗」と呼ばれる結果に至ったのか。しかし、「失敗」って言いすぎ、とやっぱり思ってしまう。
悔しい。これもう一度読まなきゃな。
全体主義の起源』も読んでない(!)ので私。

私は、もっと細かいところから見ていかなきゃいけないんだ。